百年「と」トークイベント

古谷:油絵具にいきなりこれだけ厚みがあるっていうのは反則技なので、乾くと割れちゃうんですよ。割れないような絵の具の配合が結構難しくて、何回も失敗して。でも線が唐突に浮いている感じをやりたかったので色々試して。あれはモデリングペーストっていう盛り上げ材。大理石の粉でできていていろんなテクスチャーをつくるためのものなんですけど、それをキャンバスに塗ってやるとかなり割れなかった。あの壁の作品だけ下地があるので、たぶん割れないで大丈夫だと思うんですけど。
柴崎:ちょうど壁の塗り具合と似ているような感じになって。さっきのダンスですけど、ダンスを見るのは私もとても好きで。生まれ変わったらダンサーになりたいんです。笑。というのは、今自分が頭を使って文字だけ書く仕事をしているので、体の感覚だけになるのは見ていてすごく羨ましいし、見ているだけで快感がとてもあって。さっき見た、倒れるの(神村恵さんのダンス)はすごく衝撃ですよね。 演劇とか映画で役者さんの演技を見ていても、倒れるとか落ちるとか普通怖いじゃないですか。それはどうすればできるようになるのか、みたいなことを見ていていつも思うんです。痛いことがわかっていて、しかも毎日何回もやっているわけですよね。何回もやっていると、かえって楽しいとか、そういう感じになっていくんですかね。
古谷:やっぱり痛いんじゃないですかね。
柴崎:今度はどんな感じで落ちるかなとか。
古谷:でもこの作品は振り付けの人が別にいて(捩子ぴじんというダンサー)、あれをやらされている。実際は相当怒りながらやっているんじゃないか。まあ、やるって約束したからやっているけど、って(笑)。
柴崎:落ちるし痛いってことがわかっているのに、何も防御ができないわけじゃないですか。人間の本能に反しているというか。倒れるということ自体はとても自然なんですけど、人の行動としてはものすごく不自然だと思うし。普段はやらないはずの動きなので、自分の体の動きを意識しますね。
古谷:あのアメリカのダンサー(トリシャ・ブラウン)のほうは、結構抽象的なことをやっていて、体を使ってやっているのだけど、むしろ身体を消すっていうか、ニュートラルな感じにしようというかしている。さっきのバタンと倒れるのはむしろ体が物としてあるのを強調しているという感じで。だいぶ違うのだけど、たぶんあの発展みたいな感じだと思う。感情を表現するというのとかリズムにのるというのも違うし、普通にダンスというのとは違う感じだと思うんです。そういう方向に僕は行きがちで。抽象的で形式的で。
柴崎:抽象的なものが、音楽をかけると全く普通に違和感なくダンスに見えるというのは不思議ですね。あんなに抽象的なのに。
古谷:どんな曲で試してもそうなのか、あれがたまたま合うのかはよくわからないです。
柴崎:全然違う音楽でも合いそうな・・・なんだろう、例えばフラダンスの音楽とか。
古谷:むしろクールなやつはあんまり合わないのかもしれない。ミニマルっぽいやつとか。

柴崎:色んなパターンの線がありますね。線の厚さが違ったり、切り抜いたりとかいろいろありますけど、今回、大きさは揃っていますよね。
古谷:それは、ここでやることを意識して。あまり大きいものは無理なので。それから、普通のギャラリーみたいな白い壁のあるところだったら、さっきのこういうの(元になったドローイング)が何百枚もあるので、これをダーって並べて展示するかもしれないですよ。でもここが古本屋さんで、本がすでにいっぱいあるのでこんなペラペラなものが何百枚あったところで完全に負けちゃうので。そうじゃないやり方を考えようということで、こんな感じになった。90年代位に作っていた写真の作品があって。こんな感じの作品で。

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今はもうフィルム付きのカメラでは撮らないですけど、90年代は大量に写真を撮っていて。それは、一枚一枚全く別の文脈で撮っているわけですよ。日常で気になったものをパッと撮って。そういうのが袋の中に一杯くらい、何千枚とかあって。その時に、改めて新しいフレームの中で全然違う文脈で、例えばこの色とこの色の関係が響くとか、緑が真ん中にあると映えるとか、そういう視覚的な関連性というか、撮ったその場所とは関係ない関連性で一個の新しいフレームの中にいれるっていうのをやっていて。今回の作品もそれに近い形で、一個一個はあまり関係のないものを改めて一つのフレームに入れなおすっていうのを考えていたんです。もしこの場所じゃなくて、普通のギャラリーでやるとしたらこういう形を考えなかった。ここでやるからこれを考えたんです。
柴崎:形式みたいなところから決まっていった感じ?
古谷:そうですね、大変なのはこの型は油絵具で2、3回やると間が詰まっちゃうんです。だからそのたびにカッターで同じやつを切りなおして。同じキャラクターの型がいっぱいあるんです。
柴崎:一つが終わるとまた新しい型を作るのか、最初から同じ型をいくつも作っておくのではなく?
古谷:そうです。めんどくさい。それにどれを使うのかやってみないとわからないので。結果的にあるキャラを何回も使うことになって。そうするとまたもう一回作らなきゃならなくなる。
柴崎:それはなんかキャラクターっぽいですね。キャラクターって、好きなのとそうでもないのができてくるじゃないですか。それは小説書いていてもそうですけど。最初はそんなに出すつもりでもなかったのに書いているうちに、なんかこの人面白いな、となって登場が増えたりするんですけど。
古谷:そうですね。だから、これも最初どこかにこれをここに置こうというのがあって。で、やってみて。次に、これとどれをどう関係させればいいのかな、っていうことを探している感じなので。作っているときは、最終形は全然イメージされてないです。だからどれを作る時もまずは置いてみて考えるっていう感じですね。
柴崎:感覚的にというか、そういう風に出来上がってくるものだとしても、出来上がった時に上下逆だったりとかすると気持ち悪かったりするんですか?
古谷:そうですね。逆に言うと、行き詰って何か気に入らない時は逆にしてみると結構新鮮で続けられるっていうこともあるんです。
柴崎:一度完成するとそれは上下がきっちり決まるわけですか。
古谷:そうですね、でも自分で時々わからなくなる時が・・・
柴崎:樽本さんも、これはどっち向きなんだろうってtwitterに書いていたから。笑。上下問題かなり気になるんですよね。というのは、その感覚って、いつ、どこで決まるのかなと思って。
古谷:どこで決まるんですかね。重力がある状態で生活しているので、眼が納得する形とかはあるんじゃないですかね。逆に重力に反するように作るのもありかなというのはある。普通の絵を逆に展示しただけでずいぶん新鮮になるっていう。
柴崎:上下と、裏表も。
古谷:はい、(型の元になるドローイングを)描いているときはこの方向で描いたと思うんですけど、実際使ったのはこっち(型を、描いているときの状態を裏返して)で使っているほうが多いんです。自分でもよくわからない。これって座っているときのイメージなんです。でもこうしてみると飛び込んでいるときのイメージの形に見えて。こっち(飛び込んでいるような形)のほうがいい形だなと思ってたぶんこっちの方を多く使っている。そういう風に自分で描いたものでも角度を変えると結構印象が変わるんです。

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柴崎:描いていて、ある時点までは反転が可能であったり、角度が変わるのが可能だったりするのにどこからか不可能になる。不可逆性が生まれるな瞬間がある。それは小説がどこで完成、どこでどうやって終わらせるか、に近いかもしれないです。
古谷:なんですかね。あんまり関係ない形もあるのかな。
柴崎:5年前に古谷さんの絵を見たときは、もっと絵の全体の感じだったんです。受け取る印象が。今回、線そのものの一つ一つの形の印象が強くなったなっていうのはあります。かなり違う感じになったんじゃないかなと。それから、写真を撮って1ヵ月分まとめてブログにUPしてますよね。3年位前に『建築と日常』のトークイベントをした時より上手くなっているなと思って。古谷さんの写真を見るたびに、上手くなっているなと思うんですけど。風景を撮っているから、最初から上下が決まっていると思うんですけど。でもどんどん抽象的になっている。今のほうが具体的なものを撮ってはいるんだけれど抽象度が上がっています。
古谷:自分で写真を撮っていて何を撮っているのかよくわからない。たぶん気にしているのは光とフレームだけなんですよ。何を撮るっていうのは割とどうでもいいというか。何が映っているのかはあんまり問題じゃなくて、どういう光の状態で、どういう形で、どういう質のものが混ざって構成されているのかっていうのだけを気にしている感じなんです。それは写真だけじゃなくて、僕自身普段そういうことしか考えていないっていうか。具体的に何っていうのはあんまり興味がないですね。
柴崎:形?
古谷:形っていうか、状態。だから、毎回写真撮って人に見せても何を撮っているのかわからないってよく言われるけど。そうなのかな?と思うんですけどね。
柴崎:私はそんな感じはしないですけどね。上手くなっているな、っていう。笑。
古谷:上手くなっているってどういう。笑。やっていることがわかりやすくなっている?
柴崎:そう。こういう写真が撮りたいんだろうなっていう意図が見えやすくなっているというか。
古谷:前に八王子に住んでいて、今、平塚っていうところに住んでいるんですけど、今住んでいるところというのは、あんまり面白くないんです。風景が。八王子って道が曲がっていたり、坂があったり、高低差があったりとかするんだけど、今住んでいるところは海からずーっと平らな道がバーッと続いているようなところで。なんか面白くないなって思って撮っているところがあるんですよね。
柴崎:その面白くない風景で生活するってだいぶ感覚が変わりそうな気がするんですけど、どうですか?
古谷:そうですね、あんまり外に出なくなりますね。前は時間があればぶらぶら歩いていたけど、あんまり散歩していて面白くない。だから外に出なくなる。
柴崎:それで線のみになっていくっていう。繋がっているんですかね。風景ってすごく人間の感覚に影響があると思うので。ニューヨークみたいな縦の線が強い場所でずっと住んでいるのと、アラスカみたいな、ひたすら平らみたいなところで生まれ育つのは、その場所によって縦が長く見えるか横が長く見えるか違うって地理の授業で大学の時に習ったことがあって。それくらい見え方が自分でも気が付いてないうちに自然と変わってくるというのはあると思うんですけど。
古谷:たぶん最近の写真って、ほぼ同じところでばかり撮っている気がするんです。面白いところがそこしかないというか。
柴崎:面白いっていうのはどういう基準で面白いっていうんですか?
古谷:たぶん複数の状態が重なっている感じなんですかね。坂があったり高低差があったりするとそれだけで面白いんだけど。平面的なところだと、それとは違う面白さがないと・・。あと今、唯一良いところは、海が近いので空の表情が豊かなんですよ。雲とかの表情も変わりやすくて。光が結構刻々と変わるので、光に関しては敏感になっているかもしれない。だから光の状態が複雑になっていると面白いと思えるのかもしれない。
柴崎:このシリーズはもう少し描く?
古谷:そうですね。まだ登場していないキャラクターがいっぱいいるので。全部キャラクターを使ってあげたい感じがする。あと絵の具がいきなりバッと出ている感じが自分では気に入っているので、これをもうちょっと割れないようにちゃんとしたいっていうのはあります。
柴崎:油絵の具じゃないものとかはどうですか?粘土とか。
古谷:立体とかはこれで展開可能なのかなというのは考えてみたい。
柴崎:立体化していっています?
古谷:支持体がない立体をキャラクターとして作るにはどうしたらいいのかな、とちょっと考えて・・まあ普通に彫刻になっちゃうのかなというのもあるんですけど。
柴崎:そうですね、そうするとまたちょっと違う感じになるのかもしれない。