リーバイ・パタ(Levi Pata)さんインタビュー
作品集「小さい部屋から」発売記念イベント「似顔絵スケッチ」を終えたばかりの
リーバイ・パタ(Levi Pata)さんへのインタビュー
*インタビューは全て日本語で行われました。リーバイ・パタさんご自身も日本語でお話されています。
―― まず、生まれ、生い立ちからお聞きします。幼少期は、ネイティブ・アメリカンを 祖先に持つということで何か特別な習慣などありましたか?
リーバイ●僕が育った時は、もう独特な文化などはなかったです。2006年に、言語を研究している従兄が、カリフォルニア・インディアンの学会でスピーカーとして言語について発表し、その時初めて僕ら民族の文化について聞きました。
―― 出身地であるホリスターはどのような場所ですか?
リーバイ●僕は一年しかいませんでしたが、ホリスターはサンフランシスコから南へ車で1時間半くらい行った場所にあり、僕たちの種族の言語を話せる人は少なく、ほぼ通じません。 ちなみにカリフォルニアには大体100の種族の言語があります。
―― ホリスターで生まれて、次はどこへ?
リーバイ●そこからパラダイスというサンフランシスコから車で3時間くらい北へ行った、森のなかにある街に、高校を卒業するまでいました。
―― いまの生活は?
リーバイ●いまはサンフランシスコに住んでいます。家が海岸のすぐ側なので、よく海へ行っています。思っているほど人口は多くないし、自然も沢山あります。
―― 絵はいつ頃から描き始めていたのですか?
リーバイ●2歳くらいから床で描いていました。
―― 作品集「小さい部屋から」(HeHe)のなかで、リーバイさんが初めてアートに触れたのは学校の授業でゴッホの自画像を見た時だと。
リーバイ●この首のタトゥーもそうです。最初に見てアートだと感じたのがゴッホでした。10歳のときです。パラダイスには美術館もないので、先生が授業中にプロジェクターで写してくれたゴッホの絵が、アートを見た初めての体験です。
18歳のときサンフランシスコへ引越して、MOMAへ行きました。その時初めて美術を見ました。
―― アート系の学校に通ったりしたのですか?
リーバイ●高校の夏休みに、サンフランシスコのアート大学のサマープログラムを2ヶ月間受けました。卒業してその大学へ行こうと思ったけれど、そこへは行かずにコミュニティカレッジへ行きました。
―― 日本に初めて来たきっかけは?
リーバイ●高校生の時、那覇に空手の試験を受けに来ました。古い道場でとても厳しかったです。
―― 空手のきっかけは?
リーバイ●5歳の時、お母さんにスポーツをやるなら空手を習いたいと言って、はじめました。
―― その時、沖縄の他にどこか巡りましたか?
リーバイ●いや、道場で2週間、朝と夜の授業を受けて、帰国しました。(笑)
でもその後、2008年の12月に日本に引越してきて2011年6月まで2年半住んでいました。2011年に日本で個展を開いているときに、東日本大震災も経験して。
その年の6月に学生ビザが切れるタイミングでサンフランシスコへ戻りました。
―― 初めての日本の印象はどうでした?
リーバイ●みんな日本人で、一つの人種しかいないという、当たり前のことにびっくりしましたね。アメリカにはいろんな人種がいるので。
―― 若い頃から日本に来ていますが、サンフランシスコと日本はどちらが好きですか?
リーバイ●日本の方が好きです。サンフランシスコにも友達はいるけれど。
今の僕のトライブ内の政権の問題もあります。昨年4月にニュースになるような事件があって。300人位のノムラカ族は小さいからあまり取り上げられないし、アメリカの法律もインディアンの問題に着手できず、実際に取り上げられていないけど。
―― そういった政治的なことは作品にも影響していますか?
リーバイ●ずっと使っていたアトリエも使えなくなり、キッチンの小さな机で描くようになったり、狭くて光が少ない場所しかなくて。前みたいに気持ちよく描くことは難しくなりました。
―― きっと心境が変わると絵も変わってきますよね。
リーバイ●展覧会のステイトメントにも書いてありますが、絵と自分の距離が変わりました。前はスペースがあって、後ろに下がって絵を見ることができたけれど、今は地面で爪や指を使って描いてます。筆は場所がいるので。
―― 今日の百年でのイベント※1で印象的だったのは、描き始める前に手を準備運動みたいに動かしていましたね。
リーバイ●あまり意識はしてなかったですね。でも頭と手が凄く近いんだなと感じます。絵を描くことはやっぱり身体を動かすことだと思いました。
―― AL(ギャラリー)でのライブペインディング※2はけっこう手を動かして?
リーバイ●そうですね。壁に向かって手とナイフを使って描きました。ライブペインティングでなにを描くかを考えたときに、トライブが持っている土地にあるどんぐりの木を訪ねました。昔の日本人もそうだけれど、祖先たちは家族でどんぐりの木を持っていて、それを食べていました。そこからインスピレーションを得てどんぐりの話を(ペインティングを始める前に)しました。どんぐりの歌も会場で唄いました。
―― 昔から唄われている歌ですか?
リーバイ●そうですね。秋になって、木から実をもらうときに、感謝の気持ちをこめてみんなで唄う歌です。
―― ホーミーみたいですね。言語もトライブの言語?
リーバイ●そうです。
―― 昔の人はどんな時に唄っていたんですか?
リーバイ●どんぐりを木から穫るときに唄っていました。人間が生まれる前から木はあり、その木のおかげで人間は生きている。実からもらったエネルギーを返さないといけないから、そのエネルギーをお返しするようなイメージで唄っています。話すときよりも、唄っているときの方がエネルギーを使っているから。
(歌には)いろんな感情が含まれている気がします。嬉しくて、悲しくて…安心する感じ。
―― 作品集の中にあるリーバイさんの「言葉」もとても良いですね。
リーバイ●言葉にはとても興味があります。2009年に日本の吉祥寺に越してきて、毎日日本語の学校へ通ってましたが、言葉がなかなか出てこなくて歯痒かったです。全然言葉が出てこなくて悔しかった。
―― 日本にいる間に「日本への興味」と「祖国のルーツ」について同じタイミングで興味を持つことで共通点が見えてきたとお伺いしましたが、どんなところに共通点を感じますか?先ほど聞かせてもらった「どんぐりの歌」は少しお経にも近いように感じましたが。
リーバイ●昔感じたのは、空手での「礼儀」です。先生に「よろしくお願いします!」と言って始めるところとか。あと、神社の信仰ですかね。自然のなにか、神様のようなものに感謝する考え方は、日本と繋がるかもしれないですね。自然の中に神様がいるという考え方。木の神様とか、ものに宿るというか。
―― きっと感謝の気持ちだと思うんですよ。日本人もそうだけれど。圧倒的な自然の力に対する考え方ってありますよね。
―― 日本にいる間にいろんな作家さんの作品をご覧になったと思うのですが、奈良美智さんがお好きだと。
リーバイ●そうですね。初めて見た時は感動しました。そして2009年に、奈良さんの本を出しているFOILを探して、どうやったらここで展示できるか相談しました。
―― サンフランシスコで個展は?
リーバイ●2012年にサンフランシスコへ戻ってから一度展示しました。向こうは日本と違い、作品をきちんと発表するスペースというより、もっとラフでした。
―― 2011年にFOIL GALLERYで展示された個展※3は映画「ゴッドファーザー」からインスピレーションを得たそうですね。
リーバイ●そうです。その時偶然、耳が不自由な人のための、そのシーンを説明するための字幕付で映画を観て「鳴り響く銃声」「ギリシャの音楽」と同じ画面上で表示されていました。そのコンビネーションが面白くて。渋谷の日本語学校に通っている際に感じてた渋谷の雑踏音と、育ったカルフォルニアの静かさのコントラストや、自分の中の静けさと周りの雑踏の違いと重なりました。みんなと話したいけれど、日本語を話せない歯痒さなどと通じているな、と。
―― 「鳴り響く銃声」は人を不安にさせる音、「ギリシャの音楽」は人を豊かにさせる音ですね。そのコントラストが東京でその頃リーバイさんが感じていた心情とリンクしていたのですね。3年間日本に住み、震災も経験されたと思いますが、どのような生活を送っていたのですか?
リーバイ●毎晩のように居酒屋やクラブで飲んだりもしていました。(笑) 22歳の時ですね。
―― その頃制作はされていたのですか?
リーバイ●そうですね、吉祥寺の狭いアパートで日本語学校に通いながら絵を描いていました。当時はもっと感じたまま、その瞬間に湧いてくるインスピレーションで描いてました。
―― リーバイさんの絵はとても身体的というか、身体から出てくる線というイメージが強いのですが、初めて日本に住み、それが東京で、日本語が上手く話せないこともあり、複雑な思いがたくさんあったと思うのですが、東京で制作することは修行みたいなものですよね。
リーバイ●そうですね。日本の古い文化の持つ静かさみたいなものにも影響を受けました。その影響を受けつつクラブへ行ったりもしていて、そのコントラストが絵に出ることもあったと思います。