藤田はるかさんインタビュー

聞き手・構成:樽本樹廣、早水香織

写真展「いくつもの音のない川」藤田はるかさんインタビュー
ここではないどこかへ。自身のルーツをたどる旅は、故郷へと還る――。

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スタジオアシスタント時代

―始めのころは仙台のスタジオでお仕事されていたとのことですが。

藤田●はい。広告写真スタジオです。

―大学の頃から写真を?

藤田●その頃は写真をやろうとは思ってなくて、心理学を学んでいました。

―心理学を学ばれていたんですね。もともと写真に興味はあったんですか?

藤田●いや、興味は全くなかったです。カメラも持ってなかったし、撮られるのも好きではなかった。小学生の頃から美術は好きでした。父方の祖父の家系が手先が器用で、何かしら絵を描いたりモノを作ったり。あと家が文系でしたね。本しか娯楽がなくてお小遣いもないしテレビも見させてもらえないけど、月に一度本屋に連れて行ってもらって。

―環境ですかね。ではどのタイミングで写真だと思ったんですか?

藤田●ある日ふと自転車に乗っていた時「写真だ」と。

―ふいに?何かの景色を見て?

藤田●たぶんそんな感じだと思うんですけど、覚えていません。でも写真だからといってどうしていいか分からないし、機材もない。出発点としてどこにいったらいいか分からなかったですね。ある時、知り合いに広告写真のスタジオを紹介してもらい相談に行ったら『うちでアシスタントしたら?』と。学校に行くという手もあったけど、プロとしてやった方がいいと思いました。

―写真の教育的なことは正式には受けずそのままスタジオへ?

藤田●そうですね。

―そのスタジオは広告がメイン?

藤田●はい。ただ広告といっても仙台のスタジオになるとコマーシャルだけではなく新聞の記事、建築、小学校の集合写真も撮って、幅広かったです。

―幅広いですね。アシスタントって何をするんですか?

藤田●最初は何も分からないので荷物持ちしかできず、そこから露出を測ったりライティングを組んだり出来るようになりようやく簡単な撮影を任せられたりするようになりました。ただまだ完全な男性社会だったので撮影に行くと見下された態度を取られたりというのが普通にありましたね。

―それで辞めようとは思いませんでしたか?

藤田●思わなかったです。楽しかったですし、お金を貰いながら勉強ができる、全部が新しいことでした。

―「写真だ!」と思って、スタジオに入って表現したいことが出てきました?

藤田●はい。2年半いると撮れるようにもなり暗室も基本的なことも覚えて、そこで自分は何が撮りたいんだろうと思った時に、日本では仕事をしながら考えるにはあまりに忙しいので無理だと思いました。それでコネクションがあったニューヨークへ行けると決まったのですが、自分の頭の中で具体的にならなくて…。

―それでも海外へ?

藤田●そうですね。ある日フランス映画を見ていて、あの独特の青い世界がとても好きだったので青にこだわるならヨーロッパだと思って。ただ言葉も覚えるなら英語圏のイギリスかな、と。そうしたら具体的にイメージが出来てきて、知り合いもいない、ホテルも何も知らないまま、行ってしまおうと。

―最低どのくらい行こうかとか決めて?

藤田●最低3年ですかね。はじめ向こうの写真の大学に行こうと思ったのですが、金銭的にも語学学校に通いながら暗室を借りてやろうと思い直しました。写真は学術的に学ぶものではなく実践で学んで行くものだと思ったので。

―イギリスではどんな写真を?青っぽいイメージと先ほどお聞きしましたが。

藤田●まず、イメージにたどり着く前に広告写真から解き放たれるまで時間がかかりましたね。広告は特殊なので。

―スタジオでは与えられた仕事をこなして写真を撮らなきゃいけないですしね。カメラは何を?

藤田●ニコンのF3です。写真を始めてからずっと使っていたものです。

自分の写真を見つけるためイギリスへ

―イギリスにはどのくらい滞在したんですか?初めて撮ったものは何か覚えてます?

藤田●イギリスには3年半くらいいて、ホテルも決めず荷物を全部持って行きました。なのでヴィクトリア駅に着いてさぁどうしようと。今のようにネットも無いし、とりあえず今日寝る場所を探して、朝スーパーで買った食料をホテルの部屋で撮ったのを覚えています。

―日本の住まいは解約したんですね。ご両親の反応とかはどうでした?

藤田●一人暮らしをしていたので解約しました。両親ともに言葉にはしなかったけれど賛成はしてなかったと思います。

―そこから更に自分が何のためにイギリスに来たか考えないといけないんですよね。

藤田●シャッターを押さないと分からない、数を撮らないと見えてこないのでとにかくシャッターを押す毎日でした。

―でも言葉が分からないなかで写真を撮っていくのは大変では?

藤田●午前中は語学学校へ通っていました。

―行かなきゃいけないんですよね。

藤田●そうですね、バイトをしようと思ったら学生visaがどうしても必要で。

―人も撮ってました?語学が分からないなかで撮りづらいのでは?

藤田●いや、そんなことはないです。でも人を撮りたいというのもあったんですけど被写体との距離感がつかめず、初対面の人に対してもの凄く壁があって。人を撮影する時の距離感がいつも曖昧になってしまうのであまりむいていないかもしれません。

―むこうで今に繋がるような写真はつかめました?

藤田●ロンドンからアイスランドへ行った時に、景色全てが透き通っていてプリントしても黄色が混じっていなくて、こういう所が好きなんだと。元々冬の季節の寒い地方独特の空気の透明さが好きなんですよ。

―その頃は地元(東北)のこととか意識していました?好きとか嫌いとか意識ははっきりしていました?

藤田●してないですね。こんなに好きだけど住めないっていう矛盾が自分の中にあって。その感じが逆に写真を撮りに(東北へ)戻ってしまうところなのかもしれません。

―自分の写真を見つけたときはどんな感じでしたか?

藤田●普段は自分の写真にはそう感動しないのですがアイスランドでの写真を見た時、もの凄く綺麗だと思ったんです。綺麗だなと思ったのがこの時初めてでした。

写真家 川内倫子さんとの出会い

―この頃にアイスランドで川内倫子さんとお会いしたんですよね?

藤田●いや、その後です。2度目のアイスランドでの事です。

―倫子さんとは面識があったんですか?

藤田●その頃はまだありませんでした。アイスランドが初対面で、同じ歳で同じようにスタジオ出身だったのでいろいろ話しをして、連絡先を交換しました。」

―イギリスへ渡る前は帰国後何をするか考えていたんですか?

藤田●そんな先まで考えられなかったですね。イギリスに行くまでは行くことが目標でバイトしていましたからね。

―イギリスで撮影したものを発表とかは?人に見せたり?

藤田●していません。

―イギリスで誰にも見せてなかったというのは…プリントはしてたんですか?

藤田●ただもくもくとプリントはしていました。

―でもロンドンでの写真が自分のための写真になるわけですよね?向こうで撮った写真を見せたんですか?

藤田●いや、向こうでの写真は一つのピースでしかなくて、そこまで意識はしてなかったんです。あとそれまでは小さいカメラで撮っていて、今はハッセル(スウェーデンのカメラメーカー)ですけどハッセルなんて高価なカメラを買う意識が全くなかった。滞在の後半にハッセルを使っているカメラマンと出会って写真の描写が凄く良くて。そして日本に帰ってきてハッセルを購入しまとめた写真を倫子さんに見せました。花のシリーズです。

―「いくつもの音のない川」を撮影する前からよく植物や花を撮影されてたんですか?

藤田●そういうわけではなく万遍なくは撮ってました。何かのきっかけで雨の日に咲きそうな花が雨に濡れていたのを撮影した一枚がしっくりきて。この感じでいったらいいのかなと思い、シリーズで撮り始めました。

イギリスから帰国して

―イギリスを切り上げようとしたタイミングは?

藤田●テロがあったというのも大きな要因ですね。その前に治安が悪いところに住んでいて空き巣にあって、その1年後に家の前で誰かに後ろから銃を当てられて。そのタイミングに○○の桜が見たい、○○のラーメンが食べたいと具体的になってきて、イギリス(の日本食など)では代替が利かなくなってきて。その時帰りたいのかなと思いました。

―感覚が戻ってきたんですかね。

藤田●イギリスはやりたいことが見えてる人には良い国なんですよ。みんなハングリーですし。元々自立したいって気持ちが強くあったのでこのままでいいのかなと。

―テロもあってそういう出来事もあって…タイミングだったんですかね。一度仙台に戻られたんですか?

藤田●はい。荷物を置きに仙台の実家に帰って、東京にすぐ出てきてその後作品をまとめ始めました。

―まとめた時に何かみえました?

藤田●みえました。ああ自分にとっての写真ってこういうことかと。まず1枚の写真としてどうなのかから始まって写真をまとめるってことまで。写真を撮影している時は瞬間的な動きなので特に一枚一枚に何かを意図したりしていませんが、暗室作業と構成する段階で意味のようなもの、ストーリーを作り上げていくといったことなど。

―その後東京行くわけですよね。東京では何をしようと?

藤田●まずは自分の写真を確立することが先だと思っていたので、仕事として写真を撮りたくないと思ってました。何にせよまずひとつ作品としてまとめないとと思って東京に来てアルバイトでレストランとか警備員とか(笑)職種はこだわらず何でもしましたね。この頃にはこうやっていけばいいっていうのが見えてきて今に至ります。

―今は自分の個人事務所を?

藤田●そうですね、2004年の終わりから。もう10年くらいですね。

自身のルーツをたどる旅

―2011年から旅に出かけたとのことですが、自分にロシアの血が混じっているといつ分かったんですか?

藤田●父が変わっていてもとは研究者で無口で親戚付き合いが苦手らしく、祖父母の事などあまり知らないんですよね。それで結婚の挨拶の時に父方の叔母が話の流れでちらっと口にして知りました。その当時外国人が良しとされる時代ではなかったのか具体的に証明できる物が残っていないので真相はわかりませんが。母も知らなかったです。(笑)

―自分にロシアの血が流れていると知って2011年にロシアへ?ルーツを探す旅。

藤田●はい。東北地方を中心に海外も含めて冬の写真のシリーズを何年か長い間撮影していました。倫子さんにいい加減まとめて発表したら?と言われたのもあり、それだったら終点としてロシアに行ってみるのがいいと思い、行くとしたら1月か2月の一番寒い時期にと。

―寒い時期を狙って行ったわけですね。その寒い空気を感じながら撮ると自分の思った写真が撮れるんですか?

藤田●そうですね、雪が好きなのと白一色の中の研ぎすまされた中で見る薄闇にとても惹かれます。

―ロシアで撮った写真は今までの写真とまた違ったものになりました?

藤田●それはなかったです。ロシアを選んだのは実はルーツという事にはそれほどこだわっていたわけではなく、ひとつのきっかけのようなもので、ただ気持ちとしてきっちりここでシメる、着地点みたいなものが欲しかったんです。じゃないと永遠に撮り続けてしまいそうだったので。それで1月の終わりから2月の始めに帰ってきてプリントしてまとめていたら3月11日の震災があって。