藤田はるかさんインタビュー

3月11日の震災

―震災時はロシアから帰国されていたんですね。そしてすぐに仙台に戻られたんですか?

藤田●いえ、帰れませんでした。食べ物がなく水も出ないので。食料を持っていっても一人分の水の負担は大きいので、とにかく水が出るまでは帰ってくるなと言われました。ただ水道の復旧は電気やガスに比べて早かったです。3月末に水道が出た日にすぐバスを予約して行きました。

―ご家族は無事でした?

藤田●はい、家も海沿いではなかったので。ただ古い家だったので半壊の状態で解体が必要でしたが家族は無事だったのでそれだけで良かったです。

―ああ、良かったですね。

藤田●ただ全く写真を撮ろうと思える状況ではなかったです。私は報道カメラマンではないし、そこにシャッターを押すっていうのはどうだろう、というか思いもしなかったですね。

―東京に来てからも定期的に帰ってるんですか?

藤田●はい。結局東北が好きなんです。やっぱり地元ですから。仙台で仕事くださいとよく言ってました、帰りたいので。わりと頻繁に帰っています。

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―藤田さんの写真で特徴的な青っぽい世界は東京で確立されたんですか?

藤田●そうですね、あの感じは8年前位前ですかね。

―見つけたときはこれだと。

藤田●そうですね、ただ青いとは初め気が付いていませんでした。自分でプリントしているし人に見せないから分からないんですよね。後で人に見せて初めて青いって言われてああそうかと。

―意識的に付けてる色ではないんですか?

藤田●全然、あれはプリントだけで出る色ではありません。ただ色温度の高いときを狙って撮っています。あと濃いめにプリントするのが好きなので光が強すぎると陰が潰れちゃうんですよ。

『故郷は記憶』

―「旅をしていると故郷は記憶だなぁと感じる」と別のところで仰っていましたが故郷は記憶とはどういう感覚ですか?

藤田●人は土地と深く結びついているのだなと震災で改めて思いました。ちょっと違う問題ですが、いかに人間が土地にこだわるか、人類の歴史を見ても戦争の多くも土地の問題、領土をいかに広げるかが原因でもあります。じゃあなんで土地なんだろうと、人と土地についてしばらく考えていました。今回の震災で私の祖母も避難して痴呆が一気に進みました。自分が生まれ育った場所から離れてしまうと記憶が一気に混乱してしまうそうです。そういうのもあって土地と記憶、たぶんその土地にも人々の記憶っていうのが何かしら繋がってるんだろうなと思い始めました。人の生活した跡、足跡は必ず土に刻まれているのではないかと。土地と人のつながりは今回の震災でとても強く感じたことです。私自身は相反してどうしてかいつも『どこか別の所へ』と思ってしまいます。引越しも人生で16回くらいしてます。

―それは凄いですね(笑)

藤田●ここで最後っていつも思うんですけど何かしらの理由が出てきてしまうんです。たぶんそれが自分の性分でこの場所にいるということに常に違和感を感じています。

―『ここではないどこかへ』という意識がある一方で、ロシアの血が入っていてルーツのロシアへ行って更に震災があって、『たからもの』(※1)というプロジェクトもふまえて結果的に故郷へ、『ふるさと』を意識せざるを得ないというのが写真にも出ているなと構成も踏まえて感じました。いまどちらに批准が大きいとかありますか?

藤田●そうですね…震災の1年半後くらいに夕方広瀬川(仙台市)でぼんやりしていて、なんて綺麗な街なんだと改めて仙台が好きなんだと思ったんですけど、何故か私は住めないんだなとしみじみ思いました。もう帰ってもいいかなと思っていたんですけど。

―そこが強さと弱さというか、そこでいいはずなのに居られないという。でも居たいわけですよね。

藤田●でも離れているから美化しているのもあると思うんですよね。外に出ようと決めた理由があったはずだから。たまに帰るからいいんだと。

―いつかは帰りたいですか?

藤田●そうですね、東京は暑過ぎますね。夏は仕事もしたくないし。(笑)

         

―震災後写真が撮れるようになるまで時間はかかりました?

藤田●いや…でも1ヶ月くらいですね。以前に花の写真を撮らせてもらったので花を植えたいとは思っていましたがもっと落ち着いた先の事と考えていました。そんなとき友人が仙台で花の仕事をしていて彼女の友人の農家が全部流されてしまい、ちょうど春だったので花が見たいと。やっぱり亡くなった人に自分の故郷で育った花をお供えしてあげたいと新聞で見たのもあって『たからもの』(※1)というプロジェクトをやることになりました。それでその友人に会いに行ったのが4月の始めで菜の花が咲いていました。被害のあった沿岸部の写真を撮ったのはその時がはじめてです。

―「何回も何回も種を蒔こう」というコピーが凄くいいなと思いました。

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藤田●阪神の震災を経験した人から日本ではみんなあっという間に忘れてしまうと聞いていて、長く出来たらいいなと思いそのコピーになりました。

『いくつもの音のない川』

―写真集のタイトルにもあった川の干上がってる割れ目はどこですか?

藤田●あれは相馬郡新地町です。新地町はコミュニティの絆が凄く強くそれでいてふんわりした不思議な魅力があり好きな町です。

―写真集のタイトルはどこから?

藤田●意外とあんまり聞かれないんですけど(笑)ひとつは自分の中にある代々受け継いでいる血の流れ。もうひとつは川を特に冬の凍った川をわたっていろいろな土地へ移動するさま。そして東京で震災のあった日にテレビで見た七北田川が凄い勢いで逆流する映像には音が入っていなかったので。

―おそらく震災時は音が凄かったと思います。けれど、テレビで見た映像では整音された音しか聞こえませんでしたね。

藤田●当時は病的に見続けていましたが現在は震災関連の写真とか全然見たくないんです。目を背けてしまう。だからあの写真集は説明がなければ震災って分からないように丁寧に、丁寧にそれとわかるものは除いてます。もうちょっと概念的に、けれど震災があったことを忘れないように、あの時みんなが真剣にあの日のことを考えていたのを忘れないように、と思っています。

―はっとした写真があって、コップが逆さまになっていて薬が凄く現実的で。

藤田●あれが作品として最初だったんです。介護が必要な祖母の家の2階で、母の仮住まいの部屋にありました。あのコップを見てはっとする何かがあり無意識にシャッターを押していました。震災後何となく記録として残しておかなければという場面が多く、衝動的に撮るってことを忘れていたなと。あの写真は欠かさず入れますね、誰かにとって意味がなくても自分にとって意味がある写真です。

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―そこに気付くか気付かないかで写真集自体の見え方が違うなと思いました。

藤田●そういうのっていわゆる個人的な話で、誰かの死だったり極端なきっかけがないと気付かないんですよ。それがみんなに起こったっていう、そんな瞬間って最近の日本にはなかった。

―時間が経って忘れていくじゃないですか、そのなかで作品集にまとめるってどうですか?

藤田●何か残しておかなければとは思いました。ただ正直な所初めての写真集が震災ってどうよって。震災って言葉は使いたくない、できれば避けたいと思っていたけれど、震災っていわないとなかなか説明できなくて。そういったところからも今回ルーツという意味合いを濃くするためにロシアの写真も含めました。

―いま東北を撮るってことはやっぱり「震災」「津波」はついてきますよね。

藤田●ついてきますね。そこをなくしていま東北はないというか。戦前、戦後みたいな感じで震災前、震災後はまた全く別の話で。ギリギリまで写真集に具体的じゃなくても撮影地名を入れた方かいいか悩んだんですよ。どっちが良かったのかは分からないですね、見る人によりますし。写真展も最初何も提示していなくて、ただ綺麗な写真だねって。難しいですね…。

―ある程度ストーリー性もあるし、綺麗さじゃないっていう…だから写っているものはグラスとかすごく綺麗なんだけど、干上がった地面なんかも綺麗といえば綺麗だけど本来の綺麗さではないですよね。

藤田●なんか人が作り得ない凄さ…綺麗というか凄さでしょうか。

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―最後に、藤田さんの写真から忘れてはいけない出来事を背景に、自然の持つ「強さ、美しさ」と「脅威」が表現されているなと思ったんですけど、今回初めてプリントをまとめて1冊になった時にどうみえましたか?

藤田●難しいですね。(笑)新緑の季節の5月のことですが、被災した場所から後ろをはっと振り返った時に、わーっと緑だったんです。水が来たところ、来ていないところと絵に描いたように本当に凄い境界線だったんです。当時被災した地域、土色しかない所ばかりをしばらくの間歩いていたのでがっくり膝が折れそうになるくらい、世界ってこんなに美しかったんだっけって。写真集にした時にあの時の凄さが伝えられなかったなというのはあります。振り返ったときの衝撃というか。

―次の予定は?

藤田●今2つ3つ平行して写真をまとめていて、冬の写真をそろそろまとめて呪縛から離れたいです(笑)

―楽しみですね。ありがとうございました。

※1「たからもの」震災後の2011年4月に立ち上げた東北に花の苗や種を送るプロジェクト。もとの東北に戻るために人と人をつなぐハブのようなHPを運営し、震災のことだけではなく日常の生活も取り上げ東北から発信している。

(2014年3月22日 吉祥寺・百年にて)

藤田はるか(fujita haruka)

1972年宮城県仙台市生まれ。1994年より仙台の広告写真スタジオ勤務。
1998年、渡英。現在、東京を拠点に雑誌、広告などで活動中。
主な展示に、個展「いくつもの音のない川」(2013年/東京・AL)、東日本大震災のチャリティー・グループ展「sowing seeds」(2013年/ノルウェー、オスロ)、1998 年仙台私立現代美術館での個展など。
http://www.fujitaharukaphoto.com/